アフターケアラー・介護が終わったその後

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家族を見送ったその後の心模様

私は32年もの間母のケアを担ってきました。5年前にそのお役目を終えた後、得も言われない感情に悩まされることとなります。

喪失感や悲しみなどのグリーフとも違う、ケアが終わったことを現実として受け止めるまでに何年かの時間が必要だったのです。

※高校生の時の私ヤングケアラーになったばかり

私は母との仲があまり良くなく、母を看取った後は正直

肩の荷が下りた

そんな感覚と、32年もケアという生活が当たり前になってきた生活が無くなった喪失感がじわじわと押し寄せてきました。

自由になったという気持ちも正直あったのですが、自由と言う生き方への不安感が強く出てきました。

自己決定、自己選択、自分を生きることがわからない

母のケア中心で人生の殆どを生きてきたため、今までの生活の殆どが、

自分の事はまずは脇に置いておく

という生活の中で、人生の節目の中で自分の意思で決めて実行することが出来なかったため、自己決定、自己選択をすることの怖さがあったのです。

そして、一番自分を悩ませたのが

私は何がしたいのか?

がわからないのです。些細な事ですが、外食をしても何が食べたいのか?買い物をしても、何が欲しいのか?私の好きな事は?私が今一番望んでいることは?など、自分の事が全くと言っていいほどわからないために、些細な事でも決められず、時間がかかってしまうのです。家族事はよくわかり

母はこれが好きだろう

子供たちはこれが食べたいだろう

そんなことは瞬時に思いつきます。

それは優柔不断とは違う自分で自分の事を知らなかった、という事に気づくのです。

そんな事は誰にでもあるよ、と思われがちですが、そう言うのとは違う自分の意思で決めることへの怖さも伴ってくるのです。そこにはもういない家族のケアのために自分の時間を使うことが出来なかったという奥深いトラウマのようなものが残される感じです。

私の生活で言えば、外出することに対して罪悪感があり、時間がものすごく気になるのです。遅くなることで家に帰ると母の体調が悪くて転倒したまま起き上がれなかったり、精神的に調子が悪い日は家に帰るなり暴言を吐かれ、死をほのめかすことを言いながら何日も口をきいてくれないことなどもしょっちゅうでした。

母にとって私が外出することは不安で自由に出かけられる私に嫉妬心すらあったのかもしれません。

生活のいたるところに、母のお伺いを立てることが当たり前になっていて、ケアには一見関係ない自分の服装や髪型に至るまで、母の精神的な調子によって決められました。母の精神を安定させるためには私の生活の全ての殆どが自己決定権がなかったと言っても過言ではありませんでした。

家族のためが優先

ケア終了後、アフターケアラーとなった時、ケアラーヤングケアラー等、ケア生活が長ければ長いほど自己決定する事への恐怖のような罪悪感のようなものが残っている人が多い気がします。

家族優先で生活してきたことが当たり前だったのに、それが無くなって、

自由に生きていいんですよ

と言われることは、ある意味知らない土地にポン!と放り投げられたような感じになるのです。

自分ファースト

そう言われたことがあります。

自分を生きるって難しい、アフターケアラーさんたちにとって時間をかけて自分ファーストを身に着けていく事はとても大事な事だと思います。私はまずは

自分が食べたいもの

を友人など人と食事に行った時に意識してチャレンジすることにしました。

自分はこうしたい

その意思を色々な場面で修正していったのです。時間をかけてゆっくりとです。

自分を知って自分を取りもどす

自分の事なのに自分の事がわからない

これって日常生活に結構な影響を及ぼしていることもわかってきました。仕事でもプライベートでも自分よりも相手の意見を聞いてそれを尊重している自分がいたのです。自分の意見は言わずに・・・

それはケア生活の影響と依存と支配の母の影響も大きかったと気づきます。それが原因で誤解されたり、トラブルになる事もしばしばあったことに

自分を取り戻そう

そう思えるようになりました。

自分を俯瞰する事、自分の意思を持つこと、それを意識しています。

今ようやく自分の足で立って生活している気がします。それは当たり前で当たり前ではなかったこと。ケアが終わったその後の生活も自分のケアが待っていることを知りました。

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