パーキンソン病だった母が病状の進行を抑えるために行っていた習慣

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私の母は50代後半でパーキンソン病と診断されました

このサイトを立ち上げたきっかけとなった、私の母のこと・・・

母は50代後半でパーキンソン病と診断をされ、そこから32年にわたり闘病をしてきまhした。昨年1月に長い闘病生活を終え旅立ちました。

そんな母が32年もの間、治療法がない難病と知っていながら、医療だけでなく、生活の中で病気に良いとされることをお伝えしたいと思います。申しておきますが、これらは奥まで治療に役立つために方法ではなく、母が自分なりに日々を元気に過ごせるための習慣のようなものです。治療とは関係ないものです。

パーキンソン病はメンタルに左右されやすい病

母を介護していて、一番辛そうだったのがメンタル面でした。特に診断後すぐの頃は、母自身がパーキンソン病に対する《受け入れ》が出来なく、絶望のどん底から抜け出すのに何年も苦しみました。元々繊細なメンタルだった母は、些細なことで過敏になったり、気にしだすと眠れなかったり、時には妄想で苦しむことがあり、診断されたことはなかったけれども、鬱症状のような精神状態はあったのです。私が物心ついた時から母の精神的なアップダウンはあったと記憶しているので、元々の性格なのかもしれません。

パーキンソン病がどのような病かということを調べれば調べるほど、母は精神的苦痛の中に追い込まれました。

生きている意味がない

そのうち寝たきりになるくらいならもう死にたい

という言葉を口にすることが多くなり、薬による影響もあったかもしれませんが、それに加えて、母自身の苦しみの中での精神面の低下が著しくなっていったのです。

パーキンソン病の患者さんは鬱症状のような精神状態になることがあります。

統計でも、半分近くの方が鬱症状を併発することが多くあると言われています。そんな症状が最初の診断から数年続きました。

病気を受け入れてからは治すという気持ちで戦っていた母

病気を受け入れるには母自身の気持ちの揺らぎが大分ありましたが、ある程度の月日が流れると、日々の生活の中に常にパーキンソン病という病と向き合わざるを得なくなることで、慣れていくことに母自身も観念しなくてはいけないというような受け入れが出来てきました。

一生付き合っていかなければいけないなら、進行を遅らせるよう頑張るわ

そう呟いたことがありました。パーキンソン病が完治するということは聞いたことはありませんが、進行を緩やかにさせることはできると医師からも言われ、そのためには日常生活で適度な運動と、ドーパミンという物質が体内に少なくなる病気で、楽しいうれしい、意欲がでるなどというような脳がリラックスするような感情が持ちにくくなるということから、母自身も好きなことをすることを意識するようになりました。父もパーキンソン病のことを学んでいたので、母がすきな自然の中でのウォーキングや、休みの日は日帰りで近場の公園に出かけて温泉に入りおいしいのもを食べて帰ってくるというような、今まで家族でも出かけたことがないことを母に付き添い、意識して楽しみを作ってあげようとしていました。

なので、父からはいつも

お母さんに心配をかけることはするなよ

と言われていました。元々毒親というくらいに暴言を吐くような母だったこともあり、小さい頃からいつも顔色を伺って生活していた私や兄は、さらに母に気を使い、余計なことを言わず、顔色をいつも以上に伺うという生活に過敏になって行ったのです。兄はそんな生活に嫌気がさし、家を出て遠方の大学に進学してからは、夏と冬の数日間だけしか家に帰ってくることはありませんでした。

そんな我が家はいつも母中心の生活になり、やがて私も進学で家を出てからは、父は献身的に母の介護をしていました。たまに実家に帰ると、健康食品や健康機器などが家中のあちこちにあり、民間療法を必死に探しては、家中に商品が増えていったのです。

受診では、次第に薬の量が増えていき、最期は1日にマックスの種類まで出されているという薬漬けの32年でした。薬の量が多すぎて、施設入所の見学に行くも、断られるケースが多々あり、結果療養型へ入院したのです。

それでも母は最期まで、治すことが念頭にありました。

基本は規則正しい生活を続けることを意識していた

母にとって、規則正しい生活はパーキンソン病と共存するためには必須でした。病気になる前からの生活習慣を一切変えずと朝は6時に起きて、家事をこなし、朝食も体調がどんなに悪くても食べるようにし、薬を服用する時間はいつも時計を見ながら時間を決めていました。元々几帳面で、時間にうるさい母だったので、その辺は母も苦にならず出来ていたようです。ただ、病状が進行してくると、夜中にパーキンソン病からくる振戦が酷かったり、元々不眠体質だったので、全く眠れないことも多く、朝が辛いことも多々ありました。そんな時も起きようと頑張るのですが、そうすると一日の生活のどこかに支障をきたしてしまうので、少しずつ起きる時間がまちまちになっていったのです。

また、適度な運動も進行を遅らせるためには必要で、リハビリがてら、毎日1時間ほどのウォーキングと、外に出られない雨の日や冬場は室内で、リハビリで教えてもらったストレッチをしていました。特に手足のこわばりが出てくる病なので、椅子に座って足の曲げ伸ばしや、父が購入してくれたルームウォーカーに乗り、歩いたり、ゴルフボールを握っって握力をつけたりと、軽く汗をかく程度まで動いていました。

体調が悪い日も頑張って動こうとして何度か転倒することも後半はあり、母もそのたびに出来なくなっていくことに落ち込みを隠せない様子でした。でも、動、自分で出来ることはやるというスタンスは変わらず、ベッド上での生活になっても、顔をふく、自分で食べるという行為はどんなに体調が悪くても自分でやると言ってききませんでした。

そして、規則正しい生活は自宅を離れて、施設や病院に移っても、時間は施設で管理されてはいても、寝たきりになっても、必ず服に着替えさせてもらい、ベッド上で起こしてもらい、夜は着替えて寝る準備をするという生活を変えませんでした。リハビリも運動だけでなく、STによる歌を歌うことや、OTによる制作活動など、母がしたいこと、を伝えそれをリハビリ計画に盛り込んでもらい、家にいる時の生活と変わりない日々を意識して過ごしてきたのです。

寝たきりにしないさせない、出来ることは自分でやってもらう

介護においてこんな言葉をよく聞きましたが、パーキンソン病であってもなくても高齢者は、日々の生活における活動を大切にすることが大切なのです。高齢になると出来ないことが増えて行ったり、時間がかかったりすることで、ついつい周囲が手を出しすぎてしまうことが多いのですが、それがいつしか生活の質の低下につながり、出来ないことが増えていき筋力や意欲の低下につながってしまうのです。

母の主治医がこう言ったことがあります

お母さんはご自身で出来ることを頑張ってやろうとしているから、筋力の低下が緩やかなのかもしれません。誰の手もかりない、という頑固さがもしかしたらいいのかもしれませんよ(笑)

母が診断されてから25年以上のお付き合いの意思は母の病気の歴史を見てきた1人です。その医師がそう言うということは、良い意味で母は頑固さが高じて自分で何でもやってやる!くらいの精神のおかげで進行が緩やかだったのかもしれないのです^^

終わりに

パーキンソン病の進行は人によって違うのは明らかです。この方法は私の母があくまで行ってきた事例であり、これが他のパーキンソン病の患者さんに効果的かと言えばそうではないと思います。母は母なりに進行を遅らせる、何なら完治して見せる!という気持ちがずっとあったことも32年という長きにわたって緩やかに病状が進行していった要因だったのかとも思います。

病は気から

とはよく言ったもので、気持ちが強ければ強いほど患者さんの生きる生命力は強くなる気がします。母を見てきてそう感じることはしばしばありました。

32年というという長い闘病生活ですから当然気持ちが緩む時期もありました。精神的なもののアップダウンが激しく、鬱症状がひどくなったことも多々あります。でも母は生きたい、治りたい、という気持ちを心のどこかで持ち続けてきたのです。

最期は火が消えるようにゆっくりゆっくりと時間をかけて逝きました。もうやり切ったのか、もしくはもう疲れた、だったのかはわかりませんが、母なりに区切りをつけたのだと感じたのです。

32年という年月はとてもとても長い長い年月だと今でも思います。それを母は役目を終えて逝ったとき、母の闘病生活の中での、色々な習慣やこだわりは32年という闘病生活にとても意味を持つものだったんだと今になって思うのです。

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