母の介護から学んだこと・介護は死と向き合うこと

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常に生きたい、と発信し続けた母

32年にわたる母の介護を終えた今、『生きること』『死を迎えること』について色々と考える機会が増えました。きっと、大事な身近な方を介護看病されていらっ者る方も同じような思いでいる子事とは思いますが、私なりに『生と死』について書かせていただこうと思います。

母は32年の間治ることのない難病、パーキンソンとともに生きてきました。発症当初はそれを受け入れることがなかなかできず、精神的におかしくなったこともあり、母なりに32年の間、少しずつ少しずつ受け入れようとしてきたように感じました。発症当初は母がいつか迎える『死』についてそれほど感じることもなく、もっと先の話だと感じていた自分がいました。でも、母の死を感じるようになった最期の数年間は、どのようにして、死を迎えるかを何となく考えるようになったのです。

毒母だった母を看取ろうと思ったのもこの頃です。いつか来るその時が母にも身近に迫っていること、生きることをあきらめない母・・・母は自分がどのように最期を迎えるか考えているというよりは、いかに長く生きていられるかを考えているように感じたのです。でも、どこかで自分の命の期限は来ることも重々わかっていたのだと思います。

もしかするとその狭間で苦しみ、時折不穏になる精神状態に陥っていたのかもしれなと、今になって思うのです。母にとってパーキンソン病と共存するということは、治らないとはわかっていても、治る情報を集めている、そんな感じです。パーキンソン病は体は不自由になっていっても、思考などの頭はしっかりしているからこそ、母が言っていた言葉を借りると『生き地獄』なのかもしれません。ALSの患者さんも同じ、体の全ての機能が失われたとしても頭はしっかりしているからこそ、自由になれない自分と苦しみの中で戦うのかもしれません。その中で、『生きることをあきらめない』という精神が病気と一緒に生きていける秘訣なのかもな・・・と思ったりもします。

頑張らないとね

治さないと

こんな言葉を時折母の口から聞いたことがあります。軌跡を起こすことを母はあきらめなかった、そう感じました。

病と共存すること

発症当初、母はどこかでパーキンソン病ではないかもしれないと、様々な情報を集めながらセカンドオピニオンを何か所も巡っていた時期がありました。それは父も同じで、高齢者には割と多い病と聞いていたからこそ、若年性のパーキンソン病にかかる人はほんのわずかだということも、間違いであってほしいと思い、藁にもすがる思いで夫婦2人で色々な情報を集めていました。

でも最終的に、パーキンソン病で間違いないという結論が出ると、母は精神的に不安定になり、生きることを諦めようと何度か命を絶とうとしました。

人は死期が迫ってくると、その準備を始めると言います。その準備ができないまま、死を迎える方もいるようです。母亡きあとに、最期まで生きることを諦めなかったと思われる母の姿に、もしかすると母は旅立つ心の準備ができないまま逝ったのでは?と思うこともあります。最後の本人の思いは誰にもわかりませんが・・・

母は病と共存するというよりは克服することを強く望みました。母が治りたいという思いをもって病と闘っているといことは痛いほど感じていたのです。

治さなきゃね

という言葉を何度か聞きました。でもどこかで治療法が確立されていない、このパーキンソン病という病に対して、直らないと知りつつ共に生きているような姿さえ見られました。

死を受け入れる

母の病はパーキンソン病によって死に至ることまずなく、その疾患が原因で起こる様々な症状からなくなるケースがほとんどです。

母は結局筋力の低下から、誤嚥性の肺炎をくりかえし、それが原因で亡くなりました。母にとっては余命があるわけではない病気と知っていたからこそ、今の自分の症状を受け入れることができにくかったのかもしれません。

リハビリを続けることで一時体調が落ち着くこともあり、その時の母は

もしかしてこのままリハビリを頑張ると、よくなっていくんじゃないか?

と小さな光のような希望が見え隠れしていて、

リハビリ頑張るわ

と、時折口にしていた言葉にはそんな意味合いがあるように感じました。私たち家族も、母がまだ初期症状の時には、リハビリや運動を続けていくことで、いつしかパーキンソン病の症状が消えていくのかもしれない、とそんな気持ちでいたこともあります。でも症状がじわじわと進行していくにつれて、パーキンソン病のことを知るにつれて、身体機能が低下していき、それによる様々な症状から命の最期を迎えることを理解していきました。それは、母も同じだったのかもしれませんが、母にとっては奇跡を信じていたところがあります。私たち家族は母の発症から20年ほどすると、いつか母の命は終わりを迎えることを自覚し、覚悟をし始めていました。

お母さんのやりたいことはなるべく叶えてあげたい

と、父は時折涙を流しながらそう言い始めたのは、発症から30年近く経っていた頃です。

最後は意識が薄れていく中で・・・

母がなくなる最後の1っか月間は、危篤と何度か連絡をもらうたびに病院へ寝泊りしていました。薄れゆく意識の中で、母は自分の意思をかろうじて伝えようとしていました。その時も、最後まで頑張ろうという思いがひしひしと伝わり、表情も強張ったり、目だけをしっかり見開いて私を見つめ手を差し出し、食べたい、というジェスチャーをしたりと生きる希望を感じていました。しかし、亡くなる3日ほど前に意識がほとんどなくなっていく中で、穏やかな表情になり、なんだか死を受け入れたような感じがしたのです。これは私の勝手な想像ですが、母にとって死を受け入れるには相当な時間がかかったのかもしれないと思ったのです。

食べたいとうジェスチャーの代わりに、手をぐっと握り返したり、亡くなる前夜はずっと私を呼び止めるような声を発して、じっと私を見つめていたのです。何かを伝えたかったようで、聞き返しても理解できませんでしたが、母なりに何かを伝えたかったのだと感じました。

人は亡くなったらどうなるんだろうか?

不謹慎にも母のそばで母を見つめながらそう考えていました。

今は母は、この世界での命を終えようとしている、母自身はこれからどこに行くかをわかっているのだろうか?

母は先の見通しがないことは不安で仕方がないほど心配性です。そんな母が急に穏やかな表情になり、なんとなくですが死を受け入れたように感じて見えるということは、母自身が命の灯が消えたら、この世界から次の場所へ行くことを理解していたからなのかもしれないと思ったのです。不安症で心配性でさみしがり屋の母がたった1人で死を受け入れて旅立ったことを思うと、死を受け入れることは次の行き先を知って安心していこうと思ったのかも・・・そんな思いで母を見送ったのです。

終わりに

この記事を書こうと思ったけれども、書き続けには2週間物時間がかかってしまいました。途中で書き進めていくと、苦しくなったり、あの当時の母の姿に最期をみとった瞬間の母の姿を思い出し、いろいろな感情が出てきて進まなかったのです。それは、母の死を思い出したことだけでなう、死を受け入れがたい気持ちでずっと頑張っていた母に対して何ができたのだろうか?という後悔の気持ちと、心配性で不安症で、さみしがり屋の母が1人で旅立ったことに、今でも信じられない気持ちでいる自分がいたこともあります。

人はいつか死を迎えます。それは誰かと一緒ではなくたった一人で旅立っていくのです。母のように命がいつどうなるかもわからない病と共存しながら、最後まであきらめない気持ちでできる限りのことを頑張るのか、それとも、死を受け入れて穏やかに最期を迎えるのかは、その時が来ないとわかりません。

母の死を通して、家族としてできるることをしてあげたい、そう思いながらも長年の母との確執からいろいろな感情が出てしまい、最後まで母に対して母の思うような介護はできていなかったと後悔している自分もいます。

その人らしく最期を迎えることがどんなことなのかを考えさせられた瞬間でもありました。今父の介護が始まり、父には最期という一区切りに向けて私には何ができるのかを考えているところです。

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