私がパーキンソン病だった母の介護から得たこと、感じたことをお伝えします

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母はいわゆる毒になる親だった

過去の記事にも書きましたが、私の母はいわゆる『毒親』と言われる母でした。そんな母を介護し看取ったことで見えた世界や感じたことが沢山ありました。

決して親との確執に悩む方に無理して介護を、と進めているわけではありません。色々なメディアでも取り上げられているように毒親は、経験した人でしかわからない、苦しみや辛さがあることを私自身も痛いほどわかっているからこそ、このような記事を書こうと思ったのです。

私の母は暴力などの目に見える毒親ではなく、支配と依存が強い女性でした。なので、周囲から見ても良いお母さんね、と言われるような姿があり、毒親だったというと私や母を知っている人は口をそろえて、

あんな優しそうな人が!?

と言われてしまいます。

まさか自分が過敏になりすぎ?

私が母を怒らせてしまうから?

母のような親は普通どこにでもいる親なの?

何十年もこの疑問は解消されませんでした。それは、家庭という密な世界の中で起きている出来事だからこそ、家庭の問題であり家族間の関りであることで、暴力など命を脅かすような関係性でなければ取沙汰されることすらないのです。

でも、社会に出て、結婚して、自分が家庭を持った時に、当時夫だった人の家族は、とても明るくて仲が良くてコミュニケーションが取れる家族だったことで、うちには無かったものが沢山見えたのです。

元夫の家族が特別仲が良かった、というわけでもなく、ごく普通の家族だったのですが、家の中で笑い声が聞こえたり、常にダメ出しや詮索をされない義妹や義兄、家でゴロゴロしていても機嫌が悪くならない義父や義母、機嫌が悪くなると食事を作ってくれないなどということもない義母、我が家にはありえないことの連続でした。

そして、義母や義父は家の顔と外の顔が同じという事にも驚きというか、やっぱり・・・と確信ににたものを感じたのです。

我が家と言えば、父は朝から夜まで仕事で、唯一の日曜日も半日ほど会社にいて、残務整理をするので、ほとんど家にはおらず、ほぼ母と兄との3人生活・・・そんな母の顔色を伺いながら生活する人生を送ってきた私にとって元夫との結婚は家族を学ぶための手段だったのかもしれないと思うことがあります。そして、長男を大事にする母は私と兄を差別してきました。それも、家族では当たり前のことと思ってましたが、子供は平等に育てるということを元夫の家族から学んだ気がします。

母は次男が生まれると、長男とは区別してきました。長男は跡取りだから、まずは長男を優先していたのです。

毒母の子育ては歪んだ子育てだったことを私の子供たちを通してでも感じることが出来たのですが、それでも私が過剰に反応しているだけでは?という疑問が常にありました。

でも、母が亡くなる直前に兄と色々な話をしたところ、兄も母の毒親ぶりに随分と悩み苦しんできたことを打ち明けられたことで、私だけが感じていた『勘違い』ではなかったと知ったのです。その時の安ど感は今でも忘れられません。

ずっと、自分のせい、自分の勘違い、過敏に反応しすぎと思っていたことが同じ兄妹である兄も感じていたことに確信が持てた瞬間でもありました。

兄は兄で、過干渉の母に悩まされ、長男で父の事業を継ぐであろう跡取りとして、母の思うままに育てられ苦しんでいました。成人してもなお、小さい子供のように関わってくる母に悩まされていたのです。

母のパーキンソン病発症によって夫婦の絆が出来たこと

私が高校生の時に母は若年性のパーキンソン病と診断されました。診断が出るまでに実に数年かかったのです。診断された当時母は50歳。40代後半をあちこちの病院で検査などを受けて、身体的な症状を抑える治療などを受けていたのです。

その後母の闘病生活が始まりました。

私が20台半ばまでは母は何とか自分のことは出来ており、家事や父の会社の経理なども普通に担っていましたが、パーキンソン病はその日によって心身の様子が違います。

朝起きることもできないくらいに手足がこわばったり、夜中に眠れなくて日中調子が悪かったり・・・母にとっては一日のどこで体調が崩れるかが心配の種でした。

初期症状の頃は、振戦(ふるえ)が起こっても、頓服を飲むとしばらくして治まり、また普通の生活を送ることが出来ていましたが、病状が進行していくことで頓服の効き目が良くなくなり、聞いている時間も短くなっていきました。

母は初期の頃は、手足がこわばって固まらないようにと、リハビリに通っており、時々一緒について行っていました。パーキンソン病の震えは人によって出る個所が色々で、母は足の震えがひどく、歩けなくなるほどでした。そうすると椅子に座っていてもずり落ちてしまい、何度か震えの発作から椅子から落ちていたこともあったのです。

リハビリの方からのアドバイスで、ふくらはぎをさすってあげることで、震えは少し落ち着きますよ

と教えてもらい、頓服が効くまで父と交代で何時間も母のふくらはぎをさすっていたこともあります。

若くしてパーキンソン病を発症した母は、元々人との付き合いが苦手だったのが、増々引きこもるようになり、今まで仕事人間だった父はその頃から仕事をセーブして(我が家は自営業でした)日曜日は母のために一緒に出掛けたりするようになり、今まで不仲だった夫婦がこの頃から急激に仲が良くなったのです。

母のパーキンソン病に対して、逃げ越しだった父が母と向き合い、母を気遣い文句を言わなくなり母がいつも穏やかでいられるよう気遣っているのがよくわかりました。

幼いころから両親は仲が悪く、喧嘩ばかり、母はいつも私と2人だけの時に父の悪口を言い続け

お父さんみたいな人と結婚しちゃだめだよ

と言われ続けました。いっそのこと離婚してくれないかいかな?と兄も私も常にそう思ってたのです。離婚しても私も兄も父と暮らす、と決めていたほどでした。でも、母の難病発症によって、夫婦の絆が深まり、夫婦げんかが劇的に少なくなり、離婚の危機があったことなどうそのように両親は変わっていきました。

母はそれが安心材料になったのか、母のわがままぶりはますますエスカレートしていったように私には見えたのも事実です。

私はパーキンソン病なんだから

病気のせいで・・・

あんた(私)が心配かけるようなことすると私の病気は悪化するの

という言葉を使って私や父に無理難題を言ったりすることも度々見られたのです。でも、父は文句をほとんど言わなくなりました。時には父もストレスがマックスになって母に言い返すこともありましたが、昔ほどの夫婦喧嘩には発展しませんでした。

まさか母の病気発症によって夫婦の絆が構築されるとは・・・母は最期まで父に依存していましたが、それは母にとって幸せな時期だったのかもしれません。

母が亡くなる前に、父は母に冗談っぽくこういっていました。

もし生まれ変わってもまた俺と一緒になってくれるか?(笑)

それに母は笑顔でうなづきました。

診断されてから32年もの闘病生活と介護生活を送った母と私たち家族

平成が始まる頃母はパーキンソン病と診断され、平成が終わる32年の1月31日母はこの世を去りました。

気づけば32年という長い長い闘病生活でした。母の闘病生活は私たち家族の介護生活の始まりでもあり、終わりでもありました。

初期の頃は介護と言ってもそれほどの身体的な負担は大きくはなかったのですが、メンタルケアが大変でした。一番うつ症状がひどかったのが初期症状から10年ほどです。身体的な症状の悪化はじわじわと進んでいましたが、メンタル的な症状は一気に訪れました。もともと、メンタルが弱かった母・・・幼いころから母は今まで笑っていたのが急に機嫌が悪くなったり傷つく言葉を吐き捨てたりとメンタルが不安定でした。

薬が強くなればいつも決まって幻覚や幻聴に襲われる母・・・それに私や父がいつも振り回されていました。母の精神状態が良くない日が続くと家に帰るのもおっくうになります。家にいると決まって母が私を呼びます。

警察から電話が来た。連れていかれる!

お父さんが浮気してる

あんたは外で何悪いことしてるの!?

全て妄想から言うことはわかってはいましたが、それに付き合うこちらもおかしくなりそうでした。もともと、毒親だった母は私に対していつもダメ出しをしてきて、思春期の多感な時期に母の威圧的な言葉に苦しめられました。髪型や着る服、下着にまで文句を言い、自分の思うとおりに私を支配したがりました。

ふしだらな!

着る服や髪型下着までに文句を言いながらいつもこんな言葉を言われると、自分はそんな人間だったんだと思ってしまうこともありました。

その頃は何度も自殺未遂も繰り返していた母・・・精神的にも自分を抑えることが出来なかったのかもしれません。

パーキンソン病はせん妄などの症状が出ることが多いのですが、私の母のように元々精神的に弱いところがある方は、精神的な症状が強く出やすいと医師に言われたことがありました。

母の精神的な不調なのか?元々の毒親っぷりを発揮しているだけなのか?当時は母の言動ひとつひとつにいつもびくびくしながらそんなことを考えていました。

身体的な症状が進行して全介護の状態になっていくと、わがままぶりは変わりませんが、妄想や幻聴に襲われることも少なくなっていきました。でも、時には精神的に不安定になりたまに起こる妄想や幻聴幻覚に悩まされることもありましたが、他は母の毒親っぷりの発揮しかありませんでした(笑)

32年の介護を振り返って

毒親で、メンタル的に随分と振り回されては来ましたが、母の介護を通して、沢山のことを学びました。パーキンソン病については父も私もこの32年で随分と詳しくなり、色々な付き合い方を学びました。

パーキンソン病は身体的や精神的な症状が進行しても、認知面はしっかりしている方が多いのです。よくALSの患者さんは体の自由が効かなくなるが頭はしっかりしているからこそ、辛く苦しい病と聞いたことがありますが、パーキンソン病もそれに近いものがあります。

特に母のように若くして発症した場合、体が思うように動かない自分と頭はしっかりしている自分に不安や生きづらさを感じることが多いようです。

母もまた、精神的な苦しみだけでなく、最期まで身体的な苦しみを言葉や文字で訴え続けました。

この苦しみはあんたにはわからないでしょけど、生き地獄です

私への手紙にこう綴っていたこともあります。

体中の筋力が衰え、口周りの筋肉も衰えることから、次第に話すこともできなくなっていった母・・・まだ手が使えた時は筆談でどうにかコミュニケーションをとっていましたが、それもできなくなっていくと、書けないのに用意してあるホワイトボードを出してくれと訴え、こちらが理解するまで、何時間でも同じ文章を書き続けた母・・・

それでもこちらが理解できないと、怒りをあらわにしてふてくされて食事もとらない、お膳をひっくり返そうとする(そんな力は後半はありませんでしたが茶碗を病室で投げました(笑))、毎日でも昨日と同じ文章を書き続けて理解してもらおうと必死でした。

生き地獄

その言葉の意味がよくわかってはいたものの、どうすることもできず、後半は母がいつも穏やかでいられるよう、極力コミュニケーションをとれるような方法を考え試していました。

でも、話せないことは母にとって苦しみでもあったのです。声を出すことすら出来なくなると私の手を握って離さなかったり、服を引っ張って離さない姿もありました。

病状の進行が緩やかだったからこそ、32年も闘病で来たんですね

末期の時、医師から呼び出され、いつ何があってもおかしくない状態と言われた後に、そう言われました。

闘病の途中に何度も母から聞いた言葉

死にたい

この言葉は長い長い闘病生活がいつ終わるのか?を待っていたような気がします。それは死という形ではないのかもしれなくて、母のわかってアピールだったとしてもパーキンソンびょをどうにかしたい、どうにかしてほしいアピールだったのかもしれません。

絶対に治す

こうも言っていました。治らない病と知りつつこういっていたのは今の苦しみから逃れたい気持ちの表れだったと思うのです。

おわりに

母の闘病を通して、苦しい時代も沢山ありました。幼い我が子を抱えながらのダブルケアをしながら母の介護をしたり、毒親だった母がますます毒親っぷりを発揮して、仕事にもならないほど呼び出しをされて、私自身も精神的におかしくなってこともあります。そして、仕事も長くは働けず、正社員ではない道を歩みながらシングルマザーとしてダブルケアをしてきました。

全てが母のせいとは思ってはいませんが、こんな人生じゃない人生だったら今私はどんな自分になっているんだろう?そう思う事もあります。

もっと平穏な人生だっただろうか?

二度も離婚することはなかっただろうか?

それはもう過去のこ都とは思いつつ、自分の生きてきた激動な人生を悲しくなることもあるのです・・・

母を看取り約1年半

今は穏やかな日常を送っています。逆に穏やかすぎて不安になるほど(笑)いつも母のことが頭から離れず、休みの日は母の所へいかないと母が機嫌が悪くなって怒られる、そう思っていたのです、そんな心の癖がいまだに抜けません。

介護は決して美談でも奉仕の心でも親孝行の思いだけでもできません。

介護をしていて素晴らしいね、と言われることは沢山ありましたし、母を看取って素晴らしいね、お母さんも幸せだったね、と言われますが果たしてそうだったのか?と思います。私は、介護をして親孝行とは思いません。介護から逃げる選択肢も必要と思っています。

特に私のように母との確執が根深い親子にとって無理に親の介護を担うことで虐待などの不幸なことに繋がる危険性もあるということを理解してほしいのです。私自身もいつ母を・・・と思う不安すら感じていたこともありました。

ねばならない、ではなく、周囲の手をかりながら、もしくは自身の命にかかわることであれば、介護をしない、関わらない、という選択を勇気をもって選んでいいのだと思います。

そんな母との32年間・・・

今は穏やかな生活を取り戻したことに幸せを感じつつ、色々なことを身をもって教えてくれた母には感謝しているのです。

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